大往生

2024/02/16

「あの人は九十歳で大往生した」とか、「雪道で車がスリップして、往生してしまった」とい、つふうに使う「往生」という言葉を国語辞典で引くと、
極楽に生まれること。死ぬこと〇処置に困ること。
と出ています。この三つが意味していることは、まるで違うことのように受けとれます。「生まれること」と「死ぬこと」は両極端ですし、「処置に困る」は、また別のことのようです。
しかし、これを仏彝的に考えればどうでしょうか。仏教では、私たちがこうして生きている世を仮の世と見ます。したがって、私たちのこの体も仮の体です。私たちは、本物を求めて何千年何万年も前から生まれ変わり、死に変わりしてきました。ある時は鳥に生まれ、ある時は猿に生まれたかもしれません。そして今生は、人となって生まれました。
人身受け難し、今すでに受く、この身今生に於て度せずんば、
更にいずれの時にか、この身を度せん。
無数の生物の中で人間に生まれるということは、大変な因縁の積み重ね、善業の集積の結果です。この時こそ、さらに良いことを積み重ね、こんど生まれる時には、ぜひ理想の世界たる極楽浄土に生まれたいと願うべきです。そこが最終ゴールと言えましょう。
人間が死ぬことは、次は極楽へ行って生まれること〇往生の「往」は往く「生」は生まれるです。これで、の「生まれる」と、の「死ぬ」が同義であることがおわかりでしょう。
の「処置に困る」の方は、これらの意味から派生した俗語です。どうにも身のおきどころがなく閉口することから来たもので、身のおきどころがなければ、往生するしかありません。
いずれにしろ私たちは、本当の往生が出来るよう、こうして健康で生きているうちに、善い行ないを積み重ねておきたいものです。

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