所 詮

2025/06/06


 私たちは所詮人間であって、人間以外の何物でもありませんが、今回はこの「所詮」の語源をたずねてみたいと思います。
 お釈迦さまは常に本当のこと、真理にかなったことをお説きくださいました。その説かれた真理を「法」と言い、特にお釈迦さまの示された法をさす時はこれを「教法」と言います。この教法が仏法僧の法であり、「能詮の言教」と「所詮の教理」という二つに分類されるというわけです。
 つまり、「能詮」とは言いあらわすものという意味で、所詮とは言いあらわされたものという意味なんですね。たとえば、空は所詮であると言った場合は、空を説くお経があり、そのお経で説かれるものが空である、ということになりますね。
 このように、いろいろな経典における「所詮」ということになりますと、それはたくさんありまして、三法印・三学・四諦・?五蘊・十二処・十二縁起など枚挙にいとまがありませんので、具体例についてはさておきたいと思いますが、とにかく私たちがお経を読む時は、このお経の「所詮は何か」ということを考えながら読むべきだ、とだけ申しておきます。この「所詮」が、やがて「つまるところ」とか「結局」などと同義に使われるようになったことは、この辺の事情から推してわかるというものですね。
 ところで、旅の俳僧として知られる種田山頭火に、次のような言葉があります。
   所詮、乞食坊主以外の何物でもない。・・・魚ゆいて魚の如く、鳥とんで鳥 に似      たり。 それでは二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。
というのです。山頭火にとっては、足を止めることが死を意味しましたが、私ちも自分のことを考える時、<自分は所詮自分でしかない>ことに気がつきたいものです。自分にできることをとことんやりぬく。これしか自分を生かす道はないと思うのですが、いかがでしょう。法の何たるかを覚れぬまでも、自分でやれることを、やれるだけやって死にたいものですね。

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